軽井沢(かるいざわ)は日本の長野県にあります。
長野県の東側県境に位置していて、軽井沢町の東側隣県は群馬県となります。長野県境ラインが軽井沢町の分だけ群馬県側に突きだした形であるために、軽井沢町の北、東、南は群馬県になります。
現在、軽井沢の読み方・呼び方は
かるいざわ
karuizawa
で浸透しています。古くは「かるいさわ」だったのですが、海外からのお客様が「さわ」と発音しにくい事もあり、国際的に進展を目指していた時期に「ざわ」の発音を推奨しました。
軽井沢町は江戸時代、五街道のひとつである中山道が通る宿場町でした。
現在、観光スポットとなる「碓井峠見晴らし台」や「神社」がある辺りには中山道の関所があり、軽井沢は碓井峠西側の宿場町として栄えていました。
碓井峠を東京方向に下った地域にあるのが坂本宿です。(群馬県安中市松井沢町坂本)
軽井沢町内には軽井沢宿(旧軽井沢)、沓掛宿(中軽井沢)・追分宿(信濃追分)が置かれていました。(この3宿をまとめて「浅間三宿」と言います)。
1885年(明治十八年)夏、スコットランド出身の宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーとその友人で同じくスコットランド出身の東京帝国大学文科講師ジェイムズ・メイン・ディクソンが、蒸し暑い東京を避けて軽井沢を訪れました。
人通りの少ない静かな宿場、そのまわりに広がる草原と林、浅間山の雄大な山容となだらかな裾野と、軽井沢の気候と景観に心をひかれた二人は、翌1886年(明治十九年)の夏も家族を伴って再訪しました。二人とも軽井沢に住む方から民家を借り、八月下旬まで滞在しました。
ショーとディクソンは、東京に戻った後も「軽井沢の夏のすばらしさ」について語り、十数名の友人を誘って、翌1887年(明治二十年)にも避暑として軽井沢を訪れました。
三度の経験によって軽井沢の良さを確認したショーは、1888年(明治二十一年)五月に養蚕民家を移転改造し、現在の旧軽井沢銀座商店街が尽きる南側にある小高い丘、大塚山(だいづかやま)に別荘を作りました。
一方、ディクソンは旅籠を移築し、別荘としました。
これが軽井沢における避暑別荘建築、避暑地としての軽井沢の歴史はじまりです。
参考・引用:Wikipedia、慶應義塾機関誌 三田評論